【翻訳】アルベルト・コンタドールが振り返る、人生を変えた5つのレース

2001年 スビダ・ア・ゴルラ(スペイン)

アマチュアの1年目、数あるレースの中でも際立っていたのがバスクで行われているスビダ・ア・ゴルラだった。短いヒルクライムレースで、一番速く登りきった選手の勝利。いまでも僕の最速記録は破られていないんだ。その頃から勝者がプロになり、良い選手になると言われているレースだった。僕には3匹の犬がいて、ツール、エトナ(ジロ名物の火山)という名前なのだけど、最初に飼った犬にゴルラって名前をつけたんだ。僕にとってすごく大事なレースと峠だったからね。

 

2003年 ツール・ド・ポローニュ(ポーランド)

ONCE-Eroski(オンセ・エロスキ)に所属時にあげた、プロ初勝利だ。イシドロ・ノザルと共に、ブエルタでロベルト・エラス(ブエルタで3度の総合優勝者)に挑むという思惑がチームと合致した。その為に僕たちは、(準備の為)とても危険な周回レースを走るためにポーランドに向かったんだ。連日の大雨で、最終日のタイムトライアル(第7ステージ/19km/ジェレニア・ゴラ〜カラパス)に時点で、ONCEには僕とコルド・ジルしか残っていなかった。

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最終日は一日で2つのレースを行った。午前中は短い山岳ステージ、午後は平坦から5km程度の登りの個人タイムトライアル。まだネオプロだった当時の僕はタイムトライアルが得意だった。だからレース前夜に監督の元に行って「午前のステージは流して力を貯め、午後(のTT)で勝負していいか?」と提案したんだ。当時の監督だったサンティ・ガルシアは、僕の顔を見て「分かった。それが君のしたいことならいいよ」と言ってくれた。

午前は厳しい展開となり、僕は集団から(計画通り)落ちていった。その後、午後のレースの為にウォームアップしていたら、次第に緊張が増していったんだ。そして自分自身に「勝たなければいけない。絶対に勝たなければいけない」と言い続けた。結果的にベストタイムでフィニッシュでき、他の総合勢は誰も僕に及ばなかった。これがプロ生活で「次のステージの為に手を抜き集団から遅れた」唯一のレースになった。



2005年 ツアー・ダウンアンダー(オーストラリア)

このレースは長期離脱からの復帰戦だった。(プロ自転車選手として)普段の生活に復帰を象徴となったレースだった。マドリッドからクアラルンプール、そしてアデレードという長いフライトの間、自分がこれまで成し遂げてきた成果と、どういった復帰レースにするかについてずっと考えていた。

復帰までの道のりは簡単ではなかった。(脳血管腫の)治療の為、頭の広範囲を切開しなければならなかった。そのせいで、てんかん発作や大きな傷ができてしまった。またレースに復帰できるなんて誰にも分からなかった。なかには「復帰が早すぎる」と言う医者もいれば、復帰を反対する人もいた。だけど、結果的に2004年11月27日に再び自転車に乗る承諾をしてくれたんだ。それがトレーニングの再開だった。

練習初日から持てる限り全力で走った。毎日毎日一人で走ったり、数時間のトレーニングに付き合ってくれる人を探して練習した。

ツアー・ダウンアンダーは復帰してからわずか5週間後だったんだ。1月の初旬、飛行機に乗り込みオーストラリアを目指した。これが最善の道なんだと自分に言い聞かせながらね。自分でトレーニングするよりもレースで走った方がいい。それに、万が一なにかあってもプロトンの後をついてる救急車が病院まで搬送してくれるからね!

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だけどオーストラリアで自転車に乗ったら、体調が大丈夫だと分かったんだ。その頃はまだ(プロローグの)クリテリウムがなかったから、そのままツアー・ダウンアンダーに突入。ゼッケンをつけるということが、選手として普通の生活に戻ることに大切な証明だった。そのうえ、(当時チームメイトだった)ルイス・レオン・サンチェスのわずか前でフィニッシュし、ツアー・ダウンアンダーで一番厳しいステージで勝利することができた。信じられない一日となった。そのツアー・ダウンアンダーでの勝利が、僕のキャリアの中で、その年で最も特別なレースになったんだ。

 

2008年 ジロ・デ・イタリア(イタリア)

三回のジロ総合優勝のうち、最初の勝利が最も良かった。まさか自分がここまで良い成績を残せると思っていなかったからね。最後の最後まで出場するかわからず、その時の僕は休暇を楽しんでいたんだ。それどころか、(その年の)ジロに特に魅力を感じていなかった。なぜならそれまで調子が全然上がらないシーズンだったんだ。ジロに出場するとも思っていなかったが、チームを取り囲む状況の変化によるものだった(アスタナはその年のグランツール出場を主催者から禁止されていた)。最初の予定としては一週間でリタイアする予定だった。そもそもダブルエースの一人リーヴァイ・ライプハイマーと共にドーフィネに向け準備をする予定だったからね。ツール出場の予定がなかったし。

だけど一週間が経ち、調子は悪くなかったんだ。だから監督に「ここに連れてきたのは君たちなんだから、しばらくは付き合ってもらうよ」と言ったんだ。そして山頂フィニッシュでは、他のエースたちと争って勝てる気がしてきたんだ。だから「ごめんヨハン(・ブリュイネール監督)。ミランまで走りたい」って言ったんだ。そして優勝した。

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休暇中にチームが電話をかけてきて、ジロ・デ・イタリアの出場を告げられた。ちょうど家のリフォームの真っ最中で、しばらくトレーニングからは遠ざかっていた。だから、ジロ開幕前にイタリアのマドリッドで高低差の激しい山岳を二日間渡って行った。チームメイトとトレーニングは、ただペダルを回しているだけで心拍数は限界を超え、汗が吹き出てきた。「これは大変なことになった。一体どうなるのだろう?」って思ったよ。そのうえ、レースの早い段階でエウスカルテルの選手たちと落車してしまい前腕を少し骨折してしまった。一週間ほど強い痛みがあったかな。その落車はタイムトライアルの直前で、TTバーに腕を持ち上げることすら苦労したよ。だからコーナーを曲がるににとても苦労したんだ。しかし、日が経過するにつれ、チームスタッフと協力して腕を固定した。調子が上向くまで時間がかかったけど、最終的には自信をもってフィニッシュできるぐらい調子が戻ったんだ。昨年12月に手の靭帯を修復する手術をしたのだけど、恐らく2008年のイタリアの落車で靭帯の一部を損傷が及んでいるはずだ。

それだけではなく、かなりの骨折がそのままになっている。それに落車が原因と思われる5mm平方センチほどの骨が、手首の中を漂っているとそうだんだ。それがいつどうやってそうなったのかはわかっていない。恐らく初期のグランツールで落車し、手が痛んだが「問題ない」と自分に言い聞かせた結果だろう。X線検査は受けるのを断っていた。即家に帰らされるのが目に見えていたからね。それなら乗っていて痛みを忘れてしまいそうになるポイントまで走る。大事なのは、明日走り続けられるかどうか。それだけなんだ。



2017年 ブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン)

このブエルタはまるで、プレゼントのような特別なレースだった。もちろん、胃腸の不調で総合順位を失った第3ステージは、僕にとってもチームメイトにとっても恥ずかしい出来事だった。だけど、それにおかげで僕自身とチームが総合争いとは違ったレースが可能になったんだ。

正直に言えば、ブエルタを全て計算し尽くして総合優勝するのと、自分が思ったタイミングで仕掛けられる自由だったら、僕は後者を選ぶだろう。これを聞いてショックを受ける人もいるかも知れないけどね。

ブエルタでの自由な走りは、僕に多くのことをもたらせてくれたと思っている。自由は爽快感をもたらせてくれた。それはファンにとっても同じかもしれない。僕のタイムを計算して総合優勝するよりも、意味深いレースになったんじゃないかな。

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