アルベルト・コンタドールが振り返る、人生を変えた5つのレース

 

2017年ブエルタ・ア・エスパーニャで劇的な勝利を上げ、引退したスペインの英雄アルベルト・コンタドール。そんなスペインの伝説が、引退後のインタビューにて、人生を変える残る5つのレースを挙げた。

翻訳引用元の記事*太字引用者

目次

  1. 2001年 スビダ・ア・ゴルラ(スペイン)
  2. 2003年 ツール・ド・ポローニュ(ポーランド)
  3. 2005年 ツアー・ダウンアンダー(オーストラリア)
  4. 2008年 ジロ・デ・イタリア(イタリア)
  5. 2017年 ブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン)

 

2001年 スビダ・ア・ゴルラ(スペイン)

コンタドールが一つ目に挙げたのは、プロ転向する前の2001年(当時19歳)にバスクで行われたアマチュアのヒルクライムレースだ。

短いヒルクライムレースで一番速く登りきった選手の勝利。いまでも僕の最速記録は破られていないんだ。その頃から勝者がプロになり、良い選手になると言われているレースだった。

僕には3匹の犬がいて、ツール、エトナ(ジロ名物の火山)という名前なのだけど、最初に飼った犬にゴルラって名前をつけたんだ。僕にとってすごく大事なレースと峠だったからね。  

 

2003年 ツール・ド・ポローニュ(ポーランド)

2つ目に挙げたのは、コンタドールがONCE-Eroski(オンセ・エロスキ)でプロデビューを果たした年に上げたプロ初勝利のレース。

イシドロ・ノザルと共に、ブエルタでロベルト・エラス(ブエルタで3度の総合優勝者)に挑むという思惑がチームと合致した。その為に僕たちは、(準備の為)とても危険な周回レースを走るためにポーランドに向かったんだ。連日の大雨で、最終日のタイムトライアル(第7ステージ/19km/ジェレニア・ゴラ〜カラパス)に時点で、ONCEには僕とコルド・ジルしか残っていなかった。

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一日に午前と午後の2つのレースがあった当時のツール・ド・ポローニュ。コンタドールは午前の山岳ステージを流して走る許可を監督に得て、当時から得意だった午後の個人タイムトライアルに勝負をかけた。

レース前夜に監督の元に行って「午前のステージは流して力を貯め、午後(のTT)で勝負していいか?」と提案したんだ。当時の監督だったサンティ・ガルシアは、僕の顔を見て「分かった。それが君のしたいことならいいよ」と言ってくれた。

午前は厳しい展開となり、僕は集団から(計画通り)落ちていった。その後、午後のレースの為にウォームアップしていたら、次第に緊張が増していったんだ。そして自分自身に「勝たなければいけない。絶対に勝たなければいけない」と言い続けたんだ。

結果的にベストタイムでフィニッシュでき、他の総合勢は誰も僕に及ばなかった。これがプロ生活で「次のステージの為に手を抜き集団から遅れた」唯一のレースになった。

 

2005年 ツアー・ダウンアンダー(オーストラリア)

2004年に行われたアストゥリアス一周の第1ステージで、意識を失い落車したコンタドールは病院へ緊急輸送された。そして海綿状血管奇形と診断され、開頭手術が行われた。この2005年ツアー・ダウンアンダーはそれから約半年後に行われた復帰戦だった。

復帰までの道のりは簡単ではなかった。(脳血管腫の)治療の為、頭の広範囲を切開しなければならなかった。そのせいで、てんかん発作や大きな傷ができてしまった。

またレースに復帰できるなんて誰にも分からなかった。

なかには「復帰が早すぎる」と言う医者もいれば、復帰を反対する人もいた。だけど、結果的に2004年11月27日に再び自転車に乗る承諾をしてくれたんだ。

(中略) ツアー・ダウンアンダーは復帰してからわずか5週間後だった。1月の初旬、飛行機に乗り込みオーストラリアを目指した。これが最善の道なんだと自分に言い聞かせながらね。

自分でトレーニングするよりもレースで走った方がいい。それに、万が一なにかあってもプロトンの後をついてる救急車が病院まで搬送してくれるからね!

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体調に不安を感じながらも行われた復帰戦。当時のツアー・ダウンアンダーは本戦前のクリテリウムがなく、初日から本格的なレースとなった。

ゼッケンをつけるということが、選手として普通の生活に戻ることに大切な証明だった。そのうえ、(当時チームメイトだった)ルイス・レオン・サンチェスのわずか前でフィニッシュし、ツアー・ダウンアンダーで一番厳しいステージで勝利することができた。信じられない一日となった。そのツアー・ダウンアンダーでの勝利が、僕のキャリアの中で、その年で最も特別なレースになったんだ。  

 

2008年 ジロ・デ・イタリア(イタリア)

ジロ・デ・イタリアで2回の総合優勝を果たしているコンタドール(2011年は後に抹消された)。その中でも最初の勝利となった2008年大会は格別だったようだ。

三回のジロ総合優勝のうち、最初の勝利が最も良かった。まさか自分がここまで良い成績を残せると思っていなかったからね。

最後の最後まで出場するかわからず、その時の僕は休暇を楽しんでいたんだ。それどころか、(その年の)ジロに特に魅力を感じていなかった。なぜならそれまで調子が全然上がらないシーズンだったんだ。ジロに出場するとも思っていなかったが、チームを取り囲む状況の変化によるものだった(アスタナはその年のグランツール出場を主催者から禁止されていた)。

アスタナは前年の2007年に起こしたドーピング問題によって、主要レースからの招待がなかった。しかし急遽出場が決まり。コンタドールは3週間のグランツールであるジロ・デ・イタリアに無調整で出場することになった。

最初の予定としては一週間でリタイアする予定だった。そもそもダブルエースの一人リーヴァイ・ライプハイマーと共にドーフィネに向け準備をする予定だったからね。ツール出場の予定がなかったし。

だけど一週間が経ち、調子は悪くなかったんだ。だから監督に「ここに連れてきたのは君たちなんだから、しばらくは付き合ってもらうよ」と言ったんだ。そして山頂フィニッシュでは、他のエースたちと争って勝てる気がしてきたんだ。だから「ごめんヨハン(・ブリュイネール監督)。ミランまで走りたい」って言ったんだ。

そして、優勝した。

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この時、コンタドールは調整が不十分だっただけではなく、レース序盤で腕を骨折してしまった。

レースの早い段階でエウスカルテルの選手たちと落車してしまい前腕を少し骨折してしまった。

一週間ほど強い痛みがあったかな。その落車はタイムトライアルの直前で、TTバーに腕を持ち上げることすら苦労したよ。だからコーナーを曲がるににとても苦労したんだ。

しかし、日が経過するにつれ、チームスタッフと協力して腕を固定した。調子が上向くまで時間がかかったけど、最終的には自信をもってフィニッシュできるぐらい調子が戻ったんだ。

現役を引退した2017年12月に手の靭帯の修復手術をしたコンタドール。そこで手首に5mm平方センチほどの骨が中を漂っていたという。

それがいつどうやってそうなったのかはわかっていない。恐らく初期のグランツールで落車し、手が痛んだが「問題ない」と自分に言い聞かせた結果だろう。X線検査は受けるのを断っていた。即家に帰らされるのが目に見えていたからね。それなら乗っていて痛みを忘れてしまいそうになるポイントまで走る。大事なのは、明日走り続けられるかどうか。それだけなんだ。

2017年 ブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン)

アルベルト・コンタドールにとって現役最後のレースとなった2017年のブエルタ。しかし、総合優勝が期待されながらもステージ序盤で早々と遅れてしまった。

このブエルタはまるでプレゼントのような特別なレースだった。もちろん、胃腸の不調で総合順位を失った第3ステージは僕にとってもチームメイトにとっても恥ずかしい出来事だった。

だけど、それにおかげで僕自身とチームが総合争いとは違ったレースが可能になったんだ。

しかし、クィーンステージとなった第20ステージのアングリル峠で、コンタドールは伝説となった。

正直に言えば、ブエルタを全て計算し尽くして総合優勝するのと、自分が思ったタイミングで仕掛けられる自由だったら、僕は後者を選ぶだろう。これを聞いてショックを受ける人もいるかも知れないけどね。

ブエルタでの自由な走りは、僕に多くのことをもたらせてくれたと思っている。自由は爽快感をもたらせてくれた。それはファンにとっても同じかもしれない。

僕のタイムを計算して総合優勝するよりも、意味深いレースになったんじゃないかな。

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