なぜ世の中のオジさんは、ダジャレを言ってしまうのだろうか?
TBSラジオで毎週月曜24〜25時に放送している「東京ポッド許可局」にて、オジさんがダジャレを言ってしまう精神とその構造、対策について解説していた。
〜話し手〜
マキタスポーツ(48歳/芸人・俳優)
プチ鹿島(48歳/芸人・コラムニスト)
サンキュータツオ(42歳/芸人・一橋大学非常勤講師)
パッキンが緩んでいる
プチ鹿島:オジサンはなんでダジャレを言うんですかね?
もしくは、オジサンがダジャレを言うんじゃなくて、(中略)自然に出ちゃう…パッキンが緩んでくるのがダジャレでもあるのかな。
だから、それに対して若い20代〜30代の頃は、「これは言っちゃいけないな」という自制心があったけど、もうそういうのが取れちゃったっていうか、とりあえず、もう喋りながらダジャレをいう…みたいな。走りながら言うみたいな。笑
サンキュータツオ:お笑いに限って言えば、評価軸って「上手い」とか「面白い」以外に「くだらない」っていうのがあると思うんですよ。
(中略)ただ、若い頃はこの「くだらない」っていう価値観を受け入れられないんだよね。
やっぱり「上手い」と「面白い」を突き詰めたがるし、「くだらない」を下に見てるのよ。
でも「くだらない」ってすごいことじゃん!もう脱力するじゃん!どうでもよくなるじゃん、全てが。すげー!って尊敬に値しないところが、逆にすごいワケでさ。
アガペー(=許し)
プチ鹿島:僕の中で言うと、(ダジャレとは)「許す」っていう…
マキタスポーツ:アガペーなんだね。
サンキュータツオ:アガペー。笑
マキタスポーツ:キリストか。笑
アガペー = キリスト教における、罪深い人間に対する神の愛、自己犠牲的・非打算的な愛。
プチ鹿島:だから、「許す」っていうのを覚えてから、僕は楽しみが増えたんですよ。楽しみ方というのが、それが僕にとっては(スポーツ新聞や週刊誌の)ダジャレ見出しだし…
(中略)だから、スポーツ新聞や週刊誌がいかにも考えそうなダジャレ見出しを、先回りして考えるという遊びができちゃうわけですよ。
昔は「なんだ、くだらないダジャレが」って切って捨てていたんですよ。(許すことによって)自分の中でも広がったなっていうのはあるんですよね。
老いではなく「獲得」
マキタスポーツ:それはなんかさ、「老いた」とかってことではなく、(中略)獲得してるっていうか、新たな領域に入っているわけだから、それをなんか、もう若い人たちとかが切って捨てているかのように言わないでっていうかさ、
サンキュータツオ:ダジャレ警察ね。
マキタスポーツ:たどり着いているんだから。
プチ鹿島:じょうがない。自分たちも若い頃がそうだった(ダジャレを下に見ていた)んだから。
マキタスポーツ:「面白い」とか「上手い」とかっていうことが、とにかく一番になっちゃってるでしょ?
サンキュータツオ:価値観がね。でも俺は「くだらない」もフラット(同価値)だよ、そこも対等だよと思っているから。
客観的な視点は必要
プチ鹿島:でも、もしかしたらですよ。オジサンは「くだらない」を追求しているとは思っていな…
サンキュータツオ:思ってない!思ってない!
プチ鹿島:そこは甲子園と同じで、全部を美談にしてはいけないと思うんですよ。
そこは誰かが何か言わなきゃいけないじゃないか?っていう、
(ダジャレも)少しづつ改革はしていかなくてはいけないんじゃないかっていう精神は必要ですよ。
マキタスポーツ:我々(オジさん)が注意しなくてはならないのは…
サンキュータツオ:つけあがってはいけない!
放送のアーカイブはこちらで聴ける。
結論
1.オジさんは「ダジャレは言っている」のではなく、「言ってしまっている(自制するパッキンが壊れている)」
2.ダジャレは決して面白いものではなく、くだらないもの。
3.ダジャレは老いの象徴ではない。新しい価値観の獲得。
4.つまらないダジャレが不快なときは、その解説者がいいそうなダジャレを先回りして予測するなど等、新しい楽しみを見つけることが大切。
5.だからといって「実況者や周りを困らせるダジャレ」については、視聴者が評価して伝えなければいけない。